本日は6月4日。天安門事件が起きて今日で33年、三分の一世紀が過ぎました。
若い方の中には、天安門事件を知らない人もいるかもしれませんので、簡単に説明しますと
当時は、ソ連末期で、共産圏で急激に民主化の動きが進んでいた時期でした。(天安門事件の5か月後には、ヨーロッパでは、歴史的な「ベルリンの壁崩壊」が起きています)
中国国内でも、民主化を求める声が高まり、北京で学生や市民によって100万人規模のデモが行われるまでになりました。
当時、十代だった私は、歴史が変わると信じていました。
しかし残念ながら、中国共産党は、民主化の声に応えることなく、軍事力でこれを鎮圧する選択をしました。
1989年の6月4日、天安門広場に集まる民主化を求める学生や市民たちを、中国政府は人民解放軍を使って大弾圧を行いました。
これを聞いて、中国は酷い国だよねと感じる人が大半だと思います。
ただ、私たちの国、日本も他人事ではありません。
天安門事件のあと、国際社会が中国への非難と制裁の動きに傾くなか、中国が国際社会から孤立しないように全力で外交努力を行ったのが私たちの国日本でした。
あの日、天安門で殺された人たちの死を無駄死にに変えた一端を私たちの国が担ったといっても過言ではありません。
天安門事件の引き金となったのは、中国共産党中央委員会の初代の総書記であった胡耀邦の失脚と死でした。
胡耀邦は、中国を民主化を進めようとした結果、保守派の反発をかい1987年1月に失脚しました。
その胡耀邦が1989年4月に心筋梗塞で亡くなったことが、天安門事件につながる民主化運動を加速させる引き金となりました。
そして、民主化の旗印であた胡耀邦はチベットとも縁がある人物でした。
1980年、チベットの視察に訪れた胡耀邦は、中国占領下にあるチベットの惨憺たる状況に涙を流したと伝えられています。
胡耀邦は、演説にて、共産党のチベット政策の過ちを明確に認め謝罪し、全ての責任が中国共産党にあることを明言しました。
その後、言葉だけでなく、チベット語による教育の復活、寺院の復興等、大きくチベット政策を変更しました。
しかし残念ながら、胡耀邦の失脚後、これらの政策は全て元に戻されてしまいました。
また、胡耀邦が心筋梗塞でなくなった2か月半前には、チベットではパンチェン・ラマ10世が胡耀邦と同じ心筋梗塞でなくなっています。
胡耀邦の死は、民主化のために熱弁をふるった直後。そして、パンチェン・ラマ10世の死は、中国共産党を非難する演説をした数日後のことでした。
2か月半の間に、中国共産党にとって都合の悪い言論をした影響力のある人間が二人心筋梗塞で亡くなったわけです。
彼らの死の片方、あるいは両方が偶然なのかもしれません。
しかし、33年前の彼らの死が、中国の民主化、そしてチベットの人々がチベット人らしく生きる道を大きく頓挫させる事件であったことは間違いありません。
今日は、33年前、報われることなく多くの方々の命が奪われた記念日です。
いつの日か、彼らの死が無駄ではなかったと思える、そんな世の中が来ることを心から望みます。